介護を終えたあと、心にぽっかり穴が空いたような感覚になる人は少なくありません。
「次に何をすればいいのか」「これからの時間をどう使えばいいのか」。
この記事では、筆者自身の体験を交えながら、介護後に生活を立て直すためのヒントをお届けします。
1.介護が終わったあとに訪れる“静けさ”
あれほど毎日音で満たされていた部屋が、急に静まり返る。
その静けさに、戸惑いと寂しさが混じります。
何年も、母とは同じ部屋で医療ベッドを2台並べて生活していました。
ベッドとベッドの間は、ギリギリ70センチ。
「はづきー!」と呼ばれれば、「どうしたの?」と答え、
あれやこれやと対処し、また束の間の睡眠に戻る。
朝も夜もなく呼ばれるので、
時間があるときに軽く眠るという生活が当たり前になっていました。
そんな母が亡くなり、葬儀屋さんが丁寧に母を包んで運んでいったあと――
ぽっかり。
本当にそんな音がするようでした。
すぐそばにいた母が、もういない。
斎場の都合でお別れ式は1週間後。
そして翌日には、介護用具の引き上げが決まっていました。
でも、それが恐ろしく怖くて。
母がいた証がなくなるようで、泣きながら福祉用具センターに電話をしました。
「せめてベッド回りだけでも残してください」とお願いし、
ベッドの引き上げ日まで、母のベッドで過ごしました。
そのくらい、母の存在は大きかったのです。
母を介護しながら、わたしも母に支えられていました。
もう「はづきー!」と呼ぶ声も、母のわがままも聞こえない。
静かさは、安心ではなく、喪失の形をしていました。
母は音楽が好きでしたが、晩年は静かな時間を好むようになっていました。
それを寂しいと思いながらも、ゆっくりと終わりが近づいてくるようで、
介護する側のわたしも怖かった。
介護は、お互いが支えあって成り立つものなのだと、
あの時間が教えてくれました。
1日2回のヘルパーさんも、往診も、訪問看護も、デイサービスも終わりました。
母に紐づいていたすべての音が消え、家は静寂に包まれました。
ひとり暮らしの経験はあっても、両親がいないのは初めて。
母を見送り、残されたのはひとりっ子のわたしだけ。
介護は、母からもらった最後で最大のギフトであり、学びでした。
「やりきった」という思いと、「もっとできたのでは」という後悔の間で揺れながら、
しばらくは泣き暮らしていました。
2.「やらなきゃいけない」から「やってみたい」へ
母がいなくなった世界で、最初に取り戻したのは「笑い」でした。
そして「おいしい」と感じる感覚が、少しずつ“生きる力”を思い出させてくれました。
母は明け方に旅立ち、その夜、15年以上会っていなかった大親友に電話をしました。
彼女と話していると楽しくて、気づけば午前3時過ぎまで笑い転げていました。
信じられないけれど、母が旅立った日の夜に、私は声を出して笑っていたのです。
それほどまでに、彼女は心をそのまま話せる存在でした。
(そして今、彼女もまた介護の生活を送っています。)
電話を切った瞬間、また寂しさがこみ上げてきて、涙がこぼれました。
🍽️ 食べることを思い出す
最初に変化したのは「食事」でした。
母がいなくなってから、しばらく何も食べられませんでした。
けれどある日、ふらっと立ち上がった瞬間によろけて転びそうになり、
「このままだと私も倒れる」と気づいたのです。
食べたいものって何だろう――。
そう思っても、すぐには浮かびませんでした。
ヘルパーさんに付き添ってもらいスーパーへ行っても、何を選べばいいかわからない。
そんな時、ヘルパーさんが優しく言いました。
「葉月さん、ヨーグルトとかプリンとか好きでしたよね?」
あぁ、そうだった。わたし、そういうものが好きだった――。
その日買ったヨーグルトとプリンを食べたとき、心の底から「おいしい」と思えたのです。
母がいなくても、私は生きていかなきゃ。
本当にそう思いました。
🚿 デイサービスへ行くことを決めた
母と一緒に通っていたデイサービスに、再び行くことにしました。
目的はふたつ。
- 安全にお風呂に入って清潔を保つこと
- 昼食でバランスの取れた食事を食べること
介護中は、自分の入浴もままならず、お風呂が苦痛でたまりませんでした。
でも、デイサービスで入ったお風呂は本当に気持ちよかった。
昼食も「おいしい」と思えました。
久しぶりに、ちゃんとしたごはんを食べた気がしました。
🧹 少しずつ“生活”を取り戻す
そんな小さなきっかけから、少しずつ動けるようになりました。
母のベッドが引き上げられてから、部屋の掃除を始めました。
団地内での引っ越しも考え、不動産屋さんに登録し、
1DKの部屋を探し始めました。
「引っ越す」と決めたら、自然と体が動きました。
母の服を処分するのは本当に辛かったけれど、
新しい生活のために必要なことだと自分に言い聞かせました。
🌱 目的を持つと、人は動ける
何かを「やってみよう」と思うと、
それまで動けなかった心が不思議と動き出します。
当時のわたしの目標はふたつ。
- 1DKのお部屋に引っ越すこと
- 仕事を始めること
その決意からまもなく、状況は動きました。
新しい部屋が見つかり、書類審査や面接を経て、仕事も決まりました。
2か月間、毎日泣いてばかりいたけれど――
ふと、ある日気づいたのです。
「わたしは、生きていくんだ。」
3.お金と暮らしのリズムを見直す
現実を見つめ直すことは、痛みを伴う作業。
でも、その中に「生きていく力」が眠っています。
母の介護が終わり、残ったのは私自身の生活。
週3回のヘルパーさんとデイサービスの利用だけが続く日々になりました。
家計は楽になるはず――そう思っていたのですが、ここで予期せぬ誤算がありました。
💸 収入が途絶えるという現実
母が亡くなったあと、母の年金とともに父の遺族年金も止まりました。
遺族年金は配偶者に支給されますが、子どもには継がれません。
恐ろしい事態でした。
「これから生活していけるのだろうか」
通帳の残高を見て、手が震えました。
私の収入はひと月あたり約10万円。
家賃や光熱費を引くと、持病の薬代すら払えなくなりました。
さらに、母の在宅介護とお看取りにかかった費用が追い打ちをかけました。
酸素吸入や痰の吸引機、皮下点滴など、できる限りの設備を整えたため、
介護費用は高額に。
月末締め・翌月払いのため、年金が止まったあとに請求が届く――という
最悪のタイミングでした。
⚠️ 介護離職は、できる限り避けて
母の介護を始めるとき、私は離職を選びました。
でも今ならはっきりと言えます。
介護離職だけは、できる限り避けてください。
介護短時間勤務制度や在宅勤務が使えるなら、
絶対に辞めないでください。
介護が終わったあとに待っているのは、
「収入ゼロ」の現実です。
親を思う気持ちは尊いけれど、生活が立ち行かなくなると、
心まで追い詰められてしまいます。
介護が終わっても、1〜2か月は費用の支払いが続きます。
その時、収入がないと、介護費用と自分の生活費で精一杯。
そこに医療費や薬代が加われば、家計は完全に崩れます。
🏠 節約と収入の見直し
私は家賃を下げるために引っ越しを決め、
同時に就職活動を始めました。
金銭的に厳しいと、真っ先に削るのは「食費」です。
家賃・光熱費・スマホ代・介護費用……
どれも削れない中で、唯一減らせるのが食費。
もちろん、交際費や娯楽費はゼロ。
日用品すら、必要最低限。
本当にギリギリの生活でした。
だからこそ、言いたいのです。
介護離職はしないでください。
生活を支える柱を、どうか残しておいてください。
💳 お金の管理を“見える化”する
クレジットカードは便利ですが、
支払いが後になることで管理が難しくなります。
私はデビットカードに切り替えました。
口座残高の範囲でしか使えず、その場で引き落とされるため、
今どれだけ使えるかが一目で分かります。
また、レシートを取っておくことも続けています。
・パン1袋はいくら
・水1本はいくら
・ポイント還元率はいくつか
そうした情報をノートに写すだけで、
「次に何をどれくらい買うか」が見えてきます。
買い物リストを作ると、無駄な買い物も減ります。
家計簿に「使った金額」だけでなく「次回買うもの」も書く。
これが、無理なく続けられるコツでした。
🌱 計画的に使えば、必ず乗り越えられる
介護をしている人、そして介護を終えたばかりの人へ。
収入が減って苦しくなっても、希望はあります。
“計画的に使う”という小さな意識で、生活は必ず立て直せます。
焦らず、見える形でお金を管理すること。
それが、次のステップへ進むための第一歩です。
4.心を整える:「これでよかった」と言えるようになるまで
介護が終わったあと、心の整理には時間がかかります。
そしてその時間は、人それぞれです。
家族との関係が残す「余韻」
兄弟姉妹がいる場合、支えがあって心が楽になることもあれば、
関係があまりよくないと、かえって気持ちが落ち着かないこともあります。
また、亡くなった家族との関係が複雑だった人の場合、
「せいせいした」と思う人もいるかもしれません。
けれど、自宅介護や自宅での看取りを選ぶ人の多くは、
きっと「よい関係性」を築いてきたのではないでしょうか。
母を見送ったあとの“静けさ”
わたしの場合、父を見送ったときは母がまだいたため、
やることに追われて悲しみを乗り越えられました。
しかし、母を見送ったときは違いました。
寂寥感で気が狂いそうでした。
天涯孤独になったような気がして、
気持ちをつなぎ止めるのがやっとでした。
幸いにも、支えてくれる叔母がいて、
たくさんの人が言葉をかけてくれました。
支えてくれた人たちの言葉
- ヘルパーさんより
「24時間365日を3年間、休まずに介護したんですよ。誰にでもできることじゃないです」 - ケアマネさんより
「母親の存在って、想像以上に大きいの。10年経っても思い出すと悲しいわよ」 - 往診の先生より
「よく決断して自宅に戻ってきました。見事な判断でした。これ以上はありません」 - 叔母より
「あんた、自分の身体だって障がいがあるのに、よくやったね。お姉さん、幸せだったと思う」
「わたし、やりきったんだ」と思えた瞬間
母が旅立ってから数日は、母のベッドの上で泣き暮らしました。
母の温もりが恋しくて、夢の中ででも会いたくて、
まんじりともせず朝を迎える日々。
けれど、みんなの言葉が胸の奥に残りました。
「ちゃんとやってる」
「お母さんに届いてる」
「これ以上やれないくらい、頑張ってきた」
その声を思い出すたびに、
わたしが自分を責めることを望んでいない人たちの気持ちが伝わってきました。
そして、ようやく心の底からこう思えたのです。
わたし、やりきったんだ…。
「納得していいんだ」と思えるようになるまで
もっとできたかもしれない。
でも、母もわたしも精一杯だった。
お互いに頑張ってきたんだ、と。
24時間365日を3年間。
それは決して短くはない時間。
でも、振り返ると、あっという間の3年でした。
そう思えたとき、心の中で何かが「ことん」と落ち着きました。
母のベッドを返却した日も、不思議と涙が出ませんでした。
「これでよかったんだ。わたしはやりきったんだ」
そう自分の中で納得できた瞬間、
少しずつ「わたし自身の人生」を歩く準備が整っていきました。
少しずつ、光が差し込むように
そう思えるようになるまでには、
約2か月ほどかかりました。
泣いていても、時間は止まりません。
それに──母は、わたしが泣き続けることを望んでいないはずです。
「わたしがわたしのために生きていくことを、母は望んでいる」
だから、わたしは生きていくんだ。
気持ちを切り替えたとき、
乱れていた生活リズムも自然に整いはじめました。
そして、母が亡くなって3か月後。
わたしは復職することができたのです。
【心のまとめ】
朝、光がカーテンの隙間から差し込むたびに思う。
ああ、今日も生きているんだな、と。
もう母はいないけれど、母の分まで今日という日を大切にして生きていこう。
そう思えるようになってから、ようやく「次の人生」が始まった気がします。
介護を終えたあとも人生は続いていく。
その続きを、どう彩っていくか。
わたしは、少しずつ見つけていこうと思いました。
5.新しい時間を“楽しむ勇気”
生きなおすための小さな工夫
介護を通して学んだ「思いやり」や「忍耐」は、
きっと、次の人生を支える強さになります。
介護が終わったあとに訪れる“静けさ”の中で、
少しずつ「わたしの時間」を取り戻していく。
そのための小さな工夫を、わたし自身の体験をもとにお話しします。
小さな贅沢を「自分に許す」
まず、母と暮らしていた2人暮らしの部屋から、
ひとりの生活に合う1DKのこじんまりした部屋へ引っ越しました。
家具や持ち物は、最低限だけを残しました。
「もったいない」という気持ちをなだめながら、
思いきって手放していったのです。
母のものを捨てるのは、とてもつらいことでした。
けれど、持っていてもサイズも違うし、使う機会もない。
だから、心の中で「ありがとう」と言いながら手放しました。
そして、わたしが自分に許した小さな贅沢は──
「部屋づくり」でした。
収納を工夫したり、好きなものを飾ったり。
壁に穴をあけられない賃貸なので、
パーテーションパネルを購入して、
壁掛け時計やカレンダー、母の表彰状を飾りました。
少しずつ、“自分の暮らし”が戻ってくる。
そんな感覚を味わうことができました。
新しい趣味・学びを始める
わたしはもともと手芸が好きで、
編み物や裁縫など、手を動かすことが大好きでした。
そして、新しく挑戦したのが**「布を織る」**ということ。
机の上で織れる小さな卓上織機を購入し、
初めて作ったのは、小さなポーチ。
自分の手から生まれた布。
その布を見た瞬間、「あ、わたし、生きてる」と思いました。
ものを作るという行為は、
自分を取り戻すリハビリでもあるのだと思います。
誰かの力になれることを見つける
母を見送ったあと、支えてくれた叔母(母の妹)とは、
今では毎晩30分の電話をするようになりました。
叔母はよくこう言います。
「こんなこと、あんたにしか話せないの」
わたしとは正反対の性格だけれど、不思議と気が合う。
今まで支えてもらってきたから、
今度はわたしが支える番だと思っています。
夜の30分。
その小さな会話の時間が、わたしにとっての“つながり”です。
今ここにいる自分を、認める
わたしは今、セカンドライフを生きています。
でも、定年になったら、きっと「サードライフ」になるのでしょう。
人より一歩早く、次の人生を始めたような気がします。
そう思うと、少しだけ誇らしくもあります。
わたしが「わたし」を生きていく。
日々を丁寧に生きていく。大丈夫。
わたしは、生きていける。
【終章】セカンドライフの始まりに
介護を終えたあとの人生は、
まるで、長い雨のあとの静かな晴れ間のようです。
最初はまぶしくて、少し戸惑うけれど、
やがて、その光の中で思うのです。
「また歩いてみよう」
そう思えた日。
それが、わたしにとっての「セカンドライフ」の始まりでした。

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